ピカタの記事でも書いたが、私は『ピカタ』という料理にこの時はじめて挑戦した。なので正直味に自信がなく、息子も主人ももしかして「マズい」とお弁当箱の中に残してくるのではないか、ととても心配していた。
ところがこのピカタ、大成功だったらしく息子が言うには「今までのお弁当の中で一番美味しいかった!」とベタ褒め。主人にも感想を恐る恐る聞くと「美味しかったよ」口数の少ない彼からうれしい言葉を頂く。
勿論これは己の力ではなくて、NHKさまのお弁当本からのご教示賜ったこと以外のなにものでもないのだけれど。
そして息子と主人、よっぽど美味しかったのでしょうか。初ピカタ投入日から今日までという短い期間の間だけでも、3回もピカタをお弁当へ詰めさせていただきました有難き喜び。
お弁当作りは早朝に一人だけ寝床を抜け出し好きな音楽を掛けながら作業する、たった一人の時間だ。でも人によっては朝も早いし眠いし苦行のように感じるかもしれない。
けれど私からしたら、昼間外出するたびに知り合いだろうとなかろうと、大きな若しくは小さな対人摩擦を生じさせることの方がよっぽどの難儀であり、早朝のお弁当作りの作業などは、基本的にたった一人で何も考えず決まった順番で次々料理を完成させるだけで、よっぽど楽に感じてしまう。
しいて言えば最終的にお弁当箱に詰める時、詰め方に少し計算がいったりするだけ。肉体的疲労はあるかもしれないが、精神的疲労には繋がらないだろう。
人と接触することを放免されるのであれば、私は1日中お弁当を作っている方がずっとずっとマシだとさえ感じてしまう。そのくらい他人とは関わりたくない、と思ってしまう。
今日は息子の習い事があったので外出した。覚悟はしていたのだけれど、外出した瞬間からストレスであり、知り合いとの接触もそう、他人との接触は当然苦痛であり、はやく、とにかくはやく家に帰りたい、とばかり考えていた。
語りかけられれば私も語り返すのだけれど、決してこちらから話しかけることはない。わざわざ自分から災いを招きいれるほどの元気がないからだ。
とても社交的な人がいたとして、その人の電話帳には400件もの連絡先があったりして、でもこの人は400人全員のことを案じているかといえば怪しいものだ。
アクセサリー感覚で友達とやらは増えるのかもしれないけれど、当たり障りのない言葉を掛け合い、そして少しでも面倒臭いなと思えば、そんな人いなかったという風に記憶をすり替えてしまう、それだけだ。
私がいつ人の記憶から抹殺されてしまうのかしら?なんてことに囚われることは時間の無駄だし、そんな時間があるのならば、私はピカタを作りたいと思う。