朝。処方されたものと自主的に飲んでいるビタミンなどを合わすと全部で16種類、24錠と1包もの薬を飲んでいる。
こういう生活を続けて20年近くになり、今でこそ慣れてしまって食後のデザート感覚で飲めるようになっているけれど、SLEになり立ての頃はなかなか受け入れ難い事実であった。
風邪などで病院を受診し、薬が処方されるとせいぜい5日分程度であろう。言い方をかえれば5日間飲めばゴールのテープを切ることができるのだ。
ところがSLEの場合、体の調子がいい場合でも2か月に一回の受診となる。そして受診後、また次の受診まで命が持つように、2か月分の薬の処方箋が渡される。
処方箋を薬局で出し、薬が出来上がるのを待つ。そして薬局を出る頃、ビニール袋の中に膨れんばかりのおびただしい数の薬を手に持たされている。
ゴールは見えず、エンドレスでこの繰り返しだ。薬袋の中の薬を飲み切っても、薬局に行けばまた新しい袋で同じ薬が追加される。
冗談であってほしい、私だけ特別病気が完治するのでは、有り得ないことを夢に描く。
けれどそういう気持ちになれるのは、ある種の情熱を発しているからであり、そのパッションが体の中に存在しない今となっては、あの頃が懐かしい。
情熱は年月を経てそぎ落とされそぎ落とされ、私の精神にまとわりついていたぜい肉を徐々にとかし、かえって私に生への執着を抱かせることになった。
だから今の私は薬を服用することが苦ではない。こんなに沢山の薬たちに囲まれていれば、私は少なくとも生き永らえることができる、と感謝の気持ちさえ生まれている。
受け入れがたい事実から目をそらさず、嘘でもいいから身を委ねてみる。新しい自分をイメージしてその自分に近付こうとする努力。
少ない人生時間の中で、まどろんだり甘えたりする時もあるかもしれないけれど、それは次のステージへ行く妨げとなり、潔くもない。
私は大分の間、この大量の薬をバカみたいに飲む習慣を否定し続け、結果無駄な時間や感情を垂れ流してしまったようにも思える。
人間の究極の願い、それは生きるということ。それができるのならば、多少の苦痛には目をつぶり、自分のものだと消化し受け入れ、それすら糧に生きていく方がどんなにか楽だということ。
私は今朝も薬を飲んだ。昼も飲むだろう。もちろん夜も。最近では食間だなんていう面倒臭い飲み方のものも加わった。
でも私はそこで絶望せずに、私は薬がなければ生きることができないんだと受け入れ、日常を送っている。
最も私には生きなければならない理由があり、それは息子であり、息子が大きくなるまでは生きていなければならない、という使命を与えられた。それが大量の薬を受け入れる気持ちになれたのだろう。