私はもしかしたらいつもお腹が空いていたのかもしれないし、気持ちが不安定であったのかもしれない。
特に体育の授業がある時は、主に体育座りの時に先生の目を盗んでは校庭の砂利をむさぼり食べるようになる。
見つからないようにそっと口にしてはジャリジャリとした感触を楽しんでいたので、誰にも見つかってはいないはずだ。
勉強も運動もできてクラスの中心的立ち位置であったことから、おそらく「まさか私がそんなことをするわけがない」という風に、たまたま目撃したお友だちがいたとしてもウワサになんてならずにいたのだと思う。
そうは言ってもこのような蛮行は小学校低学年までで、学年が進むにつれ他の何かで紛らわす方法を見つけ出し、ようやく己を保っていたように思う。
具体的には習い事として親に押し付けられたピアノに水泳、バレエやお習字の練習に打ち込むことで、それらに守られて自分の存在を消し去ることで安心と安全を得る。
お稽古事は自分磨きのためではなく、恐怖の長い1日の一部を埋めてくれる理由になっていた。学校とそれらのことで忙しくしている時は、流石に母親もキレることがなかったからである。
私は時々であるけれど、母親から暴力を受けるようになっていた。
兄と弟はそこまで折檻を受けることはなかったように思われるが、特に私だけは憎まれているのか痛めつけられた。
憎まれる理由というのは私には皆目見当も付かないのだけれど、母なりには筋の通った理由で私を痛めつけていたのかもしれない。
それじゃあ勉強にスポーツ、習い事を一所懸命に頑張れば、そういった暴力行為も治まるのではないかと必死だったけれど、テストで百点を連発しようが、徒競走で1位になろうが、水泳で記録を作ろうがお習字で賞を取ろうが、とにかく何だろうが彼女の暴力行為と無関心は変わらなかった。
こうなると私はどうすれば母から愛を勝ち取れるのかという方法が思いつかなかったし、とにかく目の前の課題をコツコツと無気力気味にこなしていく、機械のように流れるように作業を終了させる、そういう方法でしか最早生きていなかった。
バランスの悪い力関係と暴力の中で、私はそれにさも堪えていない素振りで、何も気にしていない風を装い、季節をゆるゆると重ねて行く。
父は相変わらず家に帰ってこなくて、会社近くのホテルに部屋を借り、ホテル生活を送っていた。
たまに家に帰ってくる父は他人であり、気前の良いおじさんというようにしか思えなく、会っていても本音で話すことはなかったし、かといって邪険に扱うわけにもいかなかったので、『甘えること』は演じてみせていた。
私が小学校5年生の時だ。突然母がベッドから起きてこなくなり、家の雨戸が閉まったままになる。
皿はシンクに溜まり、掃除も洗濯も滞る。中学生の兄は学校や部活で忙しいし、弟はまだ小さい。
私は慣れないながらにも家事を担うことになる。
と同時に、これらを頑張れば、もしかしたら母に見直してもらえるかもしれない、そういう期待もあったのだった。