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告白 その25

大学4年の夏にはじめてSLEだと診断を下され、就職を諦め、さてこれからどうやって生きていこう、と卒業後は父の会社で週に1度、フワフワとバイトをしていた。

そのあたりに美月は華麗に登場し、家の中を引っ掻き回そうと企んでいたようであるけれど、そんなことは見え透いたことであったし、あまり動じていなかった。

それよりも難病という重圧から逃れるにはどうしたらいいものか、ということばかり考えていた。

いや、確かにそういうことで心を占めていたのかもしれないが、どの道父の女たちというのは飽きられ、そうしてポイと捨てられることを私は沢山見てきていたので、今回の美月という女もそうなのだろうと、踏んでいた。

父にある日言われた。「病院のカルテのコピーを全部もらってこい」無茶苦茶な指令であった。

私は発病当初から都立駒込病院でお世話になっており、もう1年以上の付き合いだった。その外来時の診察や入院時のものまで、全て開示してもらってこいと、高圧的な言い方であった。

私はまたいつもの父の気まぐれなのかと、はいはいと返事をし、コピーを病院にお願いする。

ところがカルテ開示というのは、一部のピンポイント部分を開示してもらうのが普通のようで、病院でこれを申し出た時、驚きと共に面倒くさい仕事を任された、という職員の困惑した顔が見て取れた。

当時紙のカルテであったため、結局1枚1枚コピーするしかなく、それは手間のかかる作業であったに違いない。私は1時間以上待たされたのではなかったか。

そうして出来上がってきたカルテコピーの量は、尋常ではない膨大な量であり、私は仕方なくタクシーで自宅まで帰ったことを覚えている。

さてこのコピーが何のために必要であったのかということだが、それは私が女子医大に転院するための資料であったのだ。

私は転院など望んでいなかった。

ところが美月の知り合いに女子医大の教授がいるということで、口を利いてもらい良い先生に診てもらおう、という勝手な計画だった。

何度も言う。私は転院など望んでいなかった。

要するに父は美月のご機嫌取りのために、女子医大の先生を紹介してもらった、ということでしかなかったのだ。

女子医大は確かに日本で1番膠原病を診るスタッフが多い病院ではあるけれど、だからといってその全てのスタッフが素晴らしいという風には限らない。

私は駒込病院で診てもらっている先生で十分だと感じていたし、でも逆らえばおそらく父に怒鳴り散らされ殴られるだろう。

抵抗して面倒くさい目に遭うか、抵抗せずに面倒くさい目に遭うか。

私はダメージの少なそうな後者を選んだ。

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