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告白 その32

学校に通っているわけでもなく、働いているわけでもなく、結婚しているわけでもなく。

どこに属するわけでもなく、何者でもない生活を私は送っていた。

父は私に後ろめたさを感じたのか、毎月私の銀行口座に30万円振り込んできた。

ようするに家には入れることはできないから、これで自力で生活しろ、という意味のものだった。

けれど退院したばかりの私は、体が本調子ではなかったけれど、とにかくできる範囲で働かなければ、と内職を始めた。

こんな不確かな生活がいつまでも続くわけがないのだから、少しでもできる範囲で働こうと考えたのだった。

毎日コツコツとアイスクリームのスプーンを袋に詰める作業に一日の何時間も費やした。

段ボール1箱で3000円の報酬をもらうために。けれど私の力量ではせいぜい一か月に4箱が限度だった。

どうにかして一人で立ち上がって生きて行かなければならない、こんな生活が長く続くはずがない。そういう不安が常に付きまとっていた。

それから逃れるためにヨガと菜食で過ごすという、ある意味肉体と精神をイジメることで自分の力で生きている気になっている部分もあったけれど気休めでしかなく、その生き方は自立しているのではないことを、半年後に理解した。

父からの送金が半分の15万円に減ったのだ。

どうやら美月から「送金する額が多いのでは?」と父が言われたようなのだ。

そこで父は美月の心をつなぎとめるためにパフォーマンスとして行ったことらしかった。

そうすると父が借りていた月に10万円家賃がかかる部屋に住み続けることは無理であり、私はランクが下の部屋を探し、そこで新たな生活を始める。

けれど当然15万円では家賃や光熱費を払い、食費も考えると手元に残るのは数万円であり、病院代すら出せるのか危ぶまれる状態に追い込まれていった。

美月というあの女はきっと、私をこんな風に追い込んで、できれば死んでほしいと思っていることが今更ながら感じられた。

私は父の会社でアルバイトしていた時の事務経験のかすかな記憶を頼りに、派遣ではあるがまずはフルタイムではなくて短時間で済む事務仕事を探し、そしてありつくことができた。

そうして徐々に段階を経て、ついにフルタイムの仕事に就くことができたのは、それから1年後であった。

その頃、茅ケ崎にいた母が私の近くに引っ越してきた。原医師に捨てられ、居場所がなくなりこちらへと出戻ったというわけである。

「ちきしょう。あの男から1000万円しか取れなかった」

私の部屋に招き入れ、お酒も入っていたせいもあると思うが母がこう叫んだ。

何のことを言っているのか私ははじめ理解できなかったけれど、ようするに手切れ金という意味らしかった。

「家賃は折半している」だとか「生活費は私も稼いでる」とデパートの売り子をして原との甘い生活を支えているはずだったのだけれど、おそらくもうすぐ50歳という年齢からくる、外見的な問題なのだろう。

ようするに原に10数年で飽きられ捨てられて、東京に舞い戻ってきたのである。

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