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告白 その40

全治半年という診断だった。

アキレス腱を負傷し、家事育児はおろか、自分の身の回りのことを整えることすら難しくなる。

そこで主人の実家から義理の母に手伝いに来てもらうことにしたのだけれど、何故か義母は私が過ごす部屋と赤ちゃんがいる部屋を遠ざけるように仕切ってしまい、全く赤ちゃんの様子が分からなくなってしまったのである。

分かるのはうれしそうな義母の声と、時々聞こえる赤ちゃんの声にならない声だけだった。

その状態は私にとっては赤ちゃんを奪われた気持ちにさせられ、段々と日に日に義母が憎く感じられるようになった。

赤ちゃんを私から取り上げた憎い女。そういう風でしか、もはやなかった。

感情の高ぶりを抑えられなくなった私は、壁一枚で仕切られた部屋にいる赤ちゃんと義母の声が聞こえるたびに苛立ち、壁を蹴ったり大声で罵ったりするようになってきたのである。

とにかく私に全く赤ちゃんを見せようとも抱かせようともしない義母が憎くて仕方ない。

私はとうとう義母の作るご飯を食べるのを拒否し、主人にコンビニで買ってきてもらった菓子パンをかじって生きるような生活をしていた。

そして義母のうれしそうな上ずったような高いトーンの声を聞くたび、仕切られた隣の部屋で壁に穴が開くほど蹴りを入れていた。

私の赤ちゃんを返せ、私の赤ちゃんを盗むな。義母に憎しみしか抱かなくなった。

するとそういう私の状況に気付けない鈍感な義母は勝手に参ってしまい、赤ちゃんのお手伝いを買って出てくれたはずなのに、1か月も経たずに帰ってしまった。

こういう中途半端な偽善者が私は嫌いなので、帰ってもらって正直せいせいしたし、赤ちゃんのことを一日目の前で見ていられることができたので、多少不自由でもこちらの方がずっと幸せだと感じだものだ。

ところがやはり体が不自由なので、たちまち生活が立ち行かなくなる。

主人も毎日会社を休んだり遅刻するわけにも行かず、親子三人での生活を成り立たせるのが困難だからだ。

そこで主人が悩んだ挙句、育休を取ろうということになる。

主人の会社には制度上整っているので、給与は下がるけれどこの危機を乗り越えるにはそれしかない、そう考えたようだった。

ところがこれはあくまでも見かけ上の制度であり、男性社員で取得しているのは何万人といる社員の中で数名しかいないようなものであった。

主人は上司に説得され、当然のようにこの案は却下となった。

そしてどうしてそのような考えが主人の中に起こったのか未だに不思議で仕方ないのだが、「赤ちゃんを乳児院へ預けよう」という提案をしてきたのだった。

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